頭の螺子が雲を飛ぶ、改

気が向いたときに気が向いたことを書きます。おた話多分多め。たまに絵とか。

宵の明星

バイト中は一人でもくもくと食器洗いをする時間とかがあるので、よく物思いにふけります。抽象的なことをあれやこれや考えてみるのです。



たまに・・というか、よく、結構重いことも考えてみるのです。

他者と自己と、自己の存在と、生と死に至るまで。

いや、仕事に専念しろよって話なんですけど。

これで浮き沈みしたり、自暴自棄な気分になったりすることも多々なのです。

「死ぬほどではない、という言葉がある。では、この生は生きるほどのものであろうか」などと。

そして、それを想う自分、そしてもしそれを語る自分がいたとしたら、その自分は嫌いなのです。

まだ何も知らない癖に、いっちょまえぶって、言葉だけを振りかざす自分の姿は、想像するだに気持ち悪いのです。



しかし、不思議なもので

私のバイトは帰りの賄いでにお酒を飲ませてもらえるのですが、

飲むと、なんだか沈んでたのが、そうでもなくなります。

生きてみようかな、悪くないな、という気分になるものです。



語る自分を、自分は嫌いだと思います。

しかし、その私を歓迎してくれる人がいるのです。

私の語りを喜んでくれる人がいるのです。



今まではそれを嬉しいと思う自分も、また気持ち悪いような気がしてました。



でもなんだか、全て些細なことに思えてくるのです。

(こういう点では、お酒に頼っても悪くないと思う。

依存ではなくて、愉快に、良い方に持って行ってくれるようなものと思う。

だから、私は酒豪ってわけではないけど、お酒が好きなのは、そして多くに人がお酒を愛するのは、そういう点もあるのやもしれない。)



私の好きな作家さんである荻原規子さんが

「ある年齢になると、開き直りが生じる」って言ってました。

自分の嫌な部分は嫌な部分で、でもそれに対して開き直れるようになるのだと。



その境地に至るまでは、どれほどの年月が要るでしょう。

しかしそれに期待して、生きてみるのも悪くは無いと思うのです。



こういうとき、思い出すのは、(私の好きな作品の引用ばかりでなんかお恥ずかしいのですが)

「人生は長く、世界は果てしなく広い。肩の力を抜いて行こう」



という言葉なのです。妖怪アパートの幽雅な日常より。





だから、語る自分が嫌いでも、でも私は語るのが好きなんだ。じゃあどうしたらいいのだ。という葛藤も、肩の力を抜いちゃえばいいのです。

語りたきゃ語ればいいのです。

語りたい時に語らずして、何のために言葉があるのか。



世界は広いのです。あまり周りのことを気にしすぎるべきではない。



広すぎる世界に責任など持てません、自分の手の届くところだけ、丁寧に見ていくことが肝要なのだと思う。





と、こうしてまた知ったかぶって語る。



語る自分をどこか嫌悪感を持っているのも事実なのですが、語りたい欲求も事実なのであります。



で、またそうしてうだうだ考えながら、私は、ちょっと生きながらえてみる気になるのです。







このブログでこういう話するのは珍しいですね。

というのも、昔よくお邪魔してたサイトさまの方が

「自分の苦しいと思うことを表だって出さない人は立派だな」

と言っていたのですね。

それになんだか共感したのです



で、このブログでは、浮き沈みなく、楽しい気持ちが伝わる、継続的に書ける話題、ということで、私の趣味方面の話を中心に、書いてきたわけなのです。初期のころはそうでもなかったかもだけど(笑





では、なんだってこんな話を急にしたのか。

まぁ、酔いの中の戯言でございましょう。



わたしの言葉なんて全て戯言なのだ。

だから責任は持てないのだ。

責任を持たないからこそ、好きなことを言うのだ。



たぶん、またこんな感じでしばらく生きていくのでしょう。